片桐操



片桐操(かたぎりみさお 1947年4月15日生)
 [少年ライフル魔事件犯人]


 東京都世田谷区に4人兄弟の末っ子として生まれる。小学生の時から銃や兵器に興味があり、ミリタリー雑誌を愛読していた。小学4年生の時に母親が他界。中学3年生の時、7歳上の姉から卒業祝いを兼ねて、35000円の本物のライフル銃と4000円の照準器を買ってもらった(銃の所持許可は18歳未満では認められないため、姉が自分名義にしておいた)。中学卒業を前に、家族は進学を勧めるが、金がかかるという理由で遠慮。自衛隊に志願するも試験で落ちたため、自動車修理工見習いとして働き始めたがすぐに辞め、その後はコック見習いをしていた。

 1965年4月15日、18歳の誕生日を迎えた片桐は、姉名義のライフル銃を自分名義に変更し、さらに貯めていたお金で東京都渋谷区のロイヤル鉄砲火薬店へ行き、40000円の空気散弾銃を購入した。初めは週に一度の割合で射撃場に通っていたが、いつしか人気のない山中で射撃をするようになっていった。

 1965年7月29日、片桐は狩猟禁止区域の神奈川県高座郡座間町の山林において空気銃でスズメを撃っていた。まもなく「子どもが銃を撃っている」という110番通報(ピストルを入手する目的で、片桐本人が偽の110番で警官をおびき出した可能性あり)によって駆けつけた警官(21歳)に訊問されると、片桐は警官をライフル銃で射殺し、応援に来たもう1人の警官(23歳)も負傷させた。

 その後は奪ったピストルを使って運転手を脅しつつ乗用車4台を乗り継いで逃走し、午後6時過ぎにロイヤル鉄砲火薬店に到着。銃砲店から武器弾薬を強奪、従業員3人を人質にとって立てこもり、警官隊との間で西部劇さながらの銃撃戦になった。片桐は警官隊および通行人に向けて合計110発のライフル弾を発射。警官・通行人・報道記者等16人を負傷させた。これに対し、警官隊は催涙弾で応戦した。

 付近を通る国電山手線は運休し、3000人もの野次馬が集まり、付近は騒然とした。警官隊は、これら野次馬に被害が及ばないよう、躍起になった。午後7時20分、片桐が催涙弾に耐えかねて、2人の女性を盾に路上に出たところを、警察官が片桐の隙を見て体当たり、ライフルを取り落とした所を取り押さえて逮捕し、事件は解決した。

 片桐の動機は、愛読していたバイオレンス小説「野獣死すべし」のような事を実際にしてみたかったというものであった。また、逮捕後の取り調べで「色んな銃を撃ちまくることができて、溜まっていたものを全部吐き出せスカッとした。どうせ刑務所に入るだろうから、代わりにベトナムに行きたい。ベトナム戦争で好きなガンを思いっきり撃つことができるのなら死んでもいい」などと語り、反省の色は全く見られなかったという。

 1967年4月13日、一審の横浜地裁は無期懲役を言い渡した。1968年、東京高裁(控訴審)では「人格の歪みによる残虐さは矯正出来ない」として死刑を宣告され、1969年10月2日、最高裁も二審判決を支持、上告を棄却して死刑が確定した。一審でも二審でも片桐は「銃への魅力は今なお尽きない。再び多くの人に迷惑をかけないように死刑にしてほしい」と述べたという。

 1972年7月21日、死刑が執行された。執行の直前、片桐は最後の頼みを教誨師に申し入れている。「僕は親不孝の許しを乞い、被害者の方の冥福を祈りながら静かに死んでいきます。でも、僕のような人間が、2人と出ないよう、この社会から二度と出ないように、この最後の辛さ、苦しさの心境だけは若者たちに伝えてください。自分との闘いに負けた人間の最後の哀れな姿が、自分をして、自分で自分の首を絞めるようなもので、こんな人間にだけはなるなと教えてやってください。」

 1972年7月21日死去(享年25)


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