死の丘


 モヘンジョ=ダロ(Moenjodaro)は、インダス文明最大級の都市遺跡。ユネスコ世界遺産には、1980年、文化遺産として「Archaeological Ruins at Moenjodaro(モヘンジョダロの遺跡群)」の名で登録されている。

 モヘンジョ=ダロの地名は現地の言葉で「死の丘」を意味するものであり、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代に生きたであろう得体の知れない死者が眠る墳丘として、地元民に代々伝えられる禁忌の領域であった。モヘンジョ=ダロは廃墟としての名であり、繁栄していた往時の呼び名、すなわち都市の名は、それを紐解くヒントすら得られていない。

 紀元前2500年から紀元前1800年にかけて繁栄したと考えられている。最大で4万人近くが暮らしていたと推測されている。しかしその後、きわめて短期間のうちに滅亡の時を迎えたと考えられており、さまざまな憶測が絶えない。近年の研究では大規模な洪水によって一気に衰退したと考えられている。

 遺跡は、東西南北に焼成煉瓦で敷き詰められた直線道路が伸びる。沐浴施設・二階建ての住宅・井戸など煉瓦造りの大規模な構造物が並び、しかもそれらは緻密に計画されて配置されている。幅9mの道が南北に走り、街は碁盤の目のように区画されていた。焼成煉瓦で造られた街は上下水道も整備されていた。生活排水を流す排水溝は街の至る所に張り巡らされていた。モヘンジョ=ダロは4500年以上も前に作られた、水を巧みに利用する高度な計画都市であった。人々はインダス川の水を利用し、農業も盛んに行っていた。

 モヘンジョ=ダロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)には、現代人が「大浴場」「公衆浴場」などと通称している、長辺約12m、短辺約7m、深さ約2.5mという規模のプール型の施設がある。これは、豊饒と再生を祈念する儀礼が行われた沐浴場と考えられている。これには「穀物倉」と通称される長辺約46m、短辺約23mの施設が隣接して設けられており、27箇所の建物基礎が確認されている。その施設の上屋構造は木造であったと推定されている。研究者は、これら2つを併せて神殿のような宗教施設であったと考えている。

 文明遺跡としての発見は、1922年、インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・ボンドパッダーエの発掘調査によってなされた。1980年、ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録された。遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けている。


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