宮崎勤



宮崎勤(みやざきつとむ 1962年8月21日生)
 [シリアルキラー]


 東京都にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、宮崎が産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人。祖父は引っ込み思案な宮崎を連れて歩き、可愛がっていた。

 幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない『両側先天性橈尺骨癒合症』という当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、両親は「障害児と周囲に思われたくない」「医師から放っておいても問題はないと言われた」と、積極的な治療を受けさせなかった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何もしなかったため、非常に辛かった、と供述している。小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった。中学生時代は将棋部に所属、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した。また通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった。成績は上位であったが、国語と社会科を非常に苦手とした。

 1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野中学校・高等学校へ進学するが両親は、英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した、と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。高校卒業後の1981年、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった。

 1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。ある同僚は「勤労態度は極めて悪く、評判も非常に悪い」と評している。1986年3月に解雇。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる引きこもり生活が数ヶ月続いた。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった。この頃アニメの同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。

 1988年5月、祖父が死去。その3ヶ月後に第一の犯行を起こす。同年8月22日、4歳の女児Aを誘拐・殺害する。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。10月3日、7歳の小学1年生の女児Bを誘拐・殺害する。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていた。12月9日、4歳の女児Cを誘拐・殺害する。Cは失禁した。焦ったのか宮崎は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、Cの全裸死体が発見される。

 1989年2月6日、A宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱を置く。2月10日には「今田勇子」名で女児A事件の犯行声明を朝日新聞東京本社に郵送する。11日には同内容の犯行声明をA宅に送った。3月11日、「今田勇子」名での告白文を朝日新聞東京本社とB宅に届けた。6月6日、5歳の女児Dを誘拐・殺害する。Dの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。6月11日、Dのバラバラ殺人遺体が発見される。幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された。

 その後、4件の犯行を自供。1990年12月20日より468日間にわたって、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される。1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により678日をかけた再鑑定が始まる。1994年11月21日、父親が多摩川にかかる神代橋より投身自殺。父が自殺した事を知らされた時、宮崎は「すーっとした」と答えている。同年11月30日に鑑定書が提出される。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。

 1997年4月14日、東京地方裁判所で死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。死刑確定後、宮崎死刑囚は手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。

 2008年6月17日、東京拘置所に於いて死刑が執行された。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との面会後に、遺体の措置については拘置所に任せたという。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中という状況だった。死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4ヶ月というスピード執行となる。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。

 2008年6月17日死去(享年45)





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