サミュエル・ドウ



サミュエル・カニオン・ドウ(Samuel Kanyon Doe 1951年5月6日生)
 [第21代リベリア共和国大統領]


 内陸のグランドゲデ郡の農村部に住むクラン族の出身で、トゥゾンという小さな村落に生まれる。初等教育は受けていたが、読み書きなどはあまり出来なく、教育はあまり良くはなかった。1969年高校を中退し、リベリア陸軍に入隊。1979年10月には陸軍の下士官に昇進し、アメリカグリーンベレーによる訓練を受けた。クラン族はリベリアの民のうちの多数派を構成するアフリカ先住民の部族であったが、長きにわたって、少数派であるアメリコ・ライベリアンによる政治的抑圧を受けていた。

 こうした政治支配に不満を抱き、上級軍曹であった1980年4月12日に仲間の他のリベリア部族出身の兵士、トーマス・クィウォンパ、トーマス・ウェー=シェン、ハリソン・ダン、ネルソン・トーらと共に軍事クーデターを敢行、アメリコ・ライベリアンのウィリアム・R・トルバート大統領を銃剣で暗殺し、その結果ホイッグ党と同党の主な支持基盤だったアメリコ・ライベリアンによる支配を終わらせた。なおドウが起こしたこのクーデターによりトルバートと26人の支持者が戦闘で死亡しており、ドウは10日後にモンロビアの海岸で13人の高官を公開の銃殺刑に処した。なおトルバート大統領を暗殺した事で、コートジボワールとブルキナファソの大統領にトルバート大統領の従兄弟がいた事からドウ政権のリベリアではコートジボワールとブルキナファソとの関係が悪化する。

 彼の政治体制のもとで、リベリアの港湾はアメリカ、カナダ、欧州各国など諸国の船に対して開かれ、かなりの外貨を得ると同時に多くの海外投資を集め、また租税回避地としての評判をも得るに至った。なお彼は彼独自の新通貨を発行したが、政権が崩壊した後、彼の出身である北部など一部の地域を除き価値がないとして使われていない。

 1985年10月15日の総選挙では、9つの野党のうち3党しか参加を許されなかった。結果、ドウは51%の支持を得、与党NDPLは上院で全26議席中21議席、下院では全64議席中51議席を得て圧勝。海外の選挙監視団が投票箱が海に捨てられていた事案等の選挙における不正を指摘し野党の議員の多くが参加をボイコットする中、1985年11月12日、1980年の軍事クーデター以降ドウと共に仕えていたギオ族出身の元リベリア陸軍総司令官トーマス・クィウォンパがマノ族ら共にクーデターを起こしたが失敗し、11月15日にクィウォンパと関係者は処刑された。その後ドウは、自分の部族であるクラン族のみで結成したリベリア国軍をギオ族とマノ族が住む地域に派兵し、クーデターへの報復としてギオ族とマノ族に対する虐殺を行った。またドウは捕まえたギオ族とマノ族の者をモンロビアにあるドウが経営していた5階建ての高級マンションで彼がペットとして飼っている2匹のライオンに餌として与えており、何人かがドウのペットのライオンにより犠牲になっている。

 そして翌1986年1月6日にドウは大統領に就任。その後、ドウは野党の議員の新聞の発行停止、政治活動の禁止など圧政を敷いた。ドウはアメリカの支持も取り付けていたが、周辺諸国やチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)などによる武装介入が続き、内戦が起きた(第一次リベリア内戦)。

 1990年9月9日、プリンス・ジョンソン率いるNPFLから分派したリベリア独立国民愛国戦線(INPFL)はモンロビアに侵攻した。内戦拡大でドウの力ではどうしようもない状態となっていた。ハリー・モニバ副大統領など閣僚からも大統領を辞任した方が良いなど言われ、アメリカもドウ政権崩壊はもはや避けられないと見ていた。ドウはクラン族主体のリベリア国軍を連れて、アメリカ軍が護衛し、ドウの故郷であるグランドゲデ郡まで安全に帰してくれるなら、すぐにでも大統領を辞任してもよいと発言するが、それは実らなかった。ドウはモンロビアにあるアメリカ大使館に亡命援助を申し出るが、断れられ拒否される。そして頼みの綱だったアメリカの介入を断られた、ドウは大統領官邸に篭っていたが、親交もあるナイジェリアのイブラヒム・ババンギダ将軍にECOWASの軍隊の介入を依頼する為、イスラエルで訓練を受けていた、ドウの護衛の部下90人を連れて、大統領官邸からモンロビアにあるECOMOGの駐屯地に向かった。ドウはテーラーと別れ、敵となった、ジョンソンと同盟を組み戦争を終わらせたいと、ECOMOGの参謀長にジョンソンとの仲介を求めようとした。ECOMOGの将官がモンロビアの港にあるINPFLの陣地で、90人のドウの護衛のと共にECOMOGの駐屯地に来ていると言う事を話した上で、その事をジョンソンに伝えると、ジョンソンはドウを捕らえるチャンスと見て、嘘を付き自分も偉大なドウ大統領と同じ考えで、戦争に疲れた祖国の為、ドウと戦争を終わらせる為、今すぐでもドウ大統領と話し合いたに行きたいとECOMOGの将官に伝えた。その事がドウ本人に伝えられ、ドウはジョンソンの言う事を信じECOMOGの駐屯地でジョンソンが来るのを待った。そしてジョンソンはドウを捕らえる為、20人程の兵士をECOMOGの駐屯地に送り込んだ。ECOMOGの駐屯地には武器を持って入る事は禁止されているので、ジープに武器を隠して駐屯地に入ったINPFLの兵士は参謀本部の中で、まず90人のドウの護衛の部下を皆殺(武器はECOMOGの決まりでECOMOGの駐屯地の入り口に置いていた為、武器を持っていなかった)にした。さらに参謀本部の2階で、ECOMOGのガーナ人司令官がINPFLにあっさり引き渡した為、1人取り残された、ドウはついにINPFLに拘束されてしまった。ECOMOGが助けれくれず、さらにジョンソンの戦略にまんまと引っ掛かれ、拘束されたドウはジープに無理やり乗せられ、ジョンソンが待つINPFLの陣地に連れてかれた。そしてその日のうちに、地面に転がされリンチされ、ジョンソンはドウに罵声を浴びせた。さらにドウは上半身裸で後ろに両腕をきつく縛られたまま、銃で足の膝を撃たれた。ドウは何でも言う事を聞くからせめて痛む手錠を緩めてくれ、とジョンソンに訴えるが、ジョンソンはドウの銀行口座を教えろと迫った。ドウは最初、銀行口座の番号を教えようとしなかったが、最終的に教えようとした。だがジョンソンはイライラし、「お前は、私と話をしたいというのか?誰が悪魔などと話をするか。」とドウに言い放ち、耳を切り落とすよう、部下に指示した。鉈で耳を切り取られたドウは悲鳴を上げ、INPFLの兵士はさらに蹴りを入れるなど残酷な拷問を行った。最後はドウを外に連れ、INPFLの兵士は切り取ったドウの耳を火であぶり、ドウに無理やり食べさせようとして、さらにドウに苦しみを与えようと指や鼻や舌なども切り取られ、出血多量のドウは銃殺刑に処された。その後、ドウの耳を切り取られた遺体はモンロビアの病院にある中庭で発見された。

 さらにその後、INPFLによりビデオ撮影されたドウを拷問し処刑する光景を映した映像が世界に流出し公開され、衝撃を与えた。

 1990年9月9日死去(享年39)


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