テッド・バンディ



セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy 1946年11月24日生)
 [アメリカ・連続殺人犯]


 バンディは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。実際、「シリアルキラー」という表現は彼を表すために考え出されている。バンディの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから性行為を行う。アナルセックスがお気に入りであったとされる。その後に殺害し、死体を遠くまで運んで切り刻み、切断し、淫らな行為をしたうえに屍姦を行い、数日後に死体の場所に戻ってから、切り取った女性の頭部の口の中に射精したという。バンディは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、残忍で加虐的な性格の持ち主であった。バンディは反社会性人格障害であったと考えられている。残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。また、日本のメディアにも題材として登場し、ハンサムで頭脳明晰なシリアルキラーとしてショッキングに扱われる。

 彼は1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル。彼の母親はデパートの店員、血縁上の父親は不明である。ロバートと母親は、ロバートが9歳になるまで祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。私生児という不名誉を隠すため、ロバートは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。彼の叔母は、ロバートが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。ロバートと母親はワシントン州タコマに引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った病院のコックをしていた男と結婚。バンディ姓となる。ウィルソン高校での高校時代、バンディは華々しいとまでは云えないまでも、メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。ただ、他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。高校の大半と大学時代の早期を通じて、内気で内向的なままであった。

 その後、「ハンサムで頭脳明晰な青年」と、バンディへの周囲の評価は変わる。バンディはワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室でカウンセリングなどのボランティア活動をしている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。バンディは、大学の一年生のとある女性と交際を始める。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気の無さに嫌気が差した結果、交際は破綻する。交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2日後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる。この交際の破綻後、バンディは3年間に亘る殺人凶行を始めた。

 1974年1月4日の夜半過ぎ、ワシントン大学に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女をバールにて殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った。翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を見つかる。一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った。バンディの次の犠牲者はワシントン大学4年生の女子生徒であった。彼女の地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した。一年後、彼女はシアトルの東の山中で首を斬られた姿で発見された。

 1974年の1月から6月にかけて、ワシントン州の8人の女性をストーキングしては殺害している。7月には凶行も全盛を極め、サマミシュ湖州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンの様だ」と言われている。

 バンディは秋にユタ州に移り住み、ソルトレイクシティにあるユタ大学ロー・スクールに通い始め、ここで10月から殺人を再開した。17歳の女性をレイプし、アナルセックスをし、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性がハロウィンの日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。

 1974年11月4日、ユタ州マレーに住む18歳の女性は、バンディの手に掛かりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常が無い。バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有するフォルクスワーゲン・タイプ1に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。翌1975年8月16日、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。1976年3月1日1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での禁錮刑を受ける。しかし、コロラド当局は連続殺人事件を追求していた。

 1976年6月7日、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。しかし、裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。コロラド州グレンウッドスプリングスにある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて独房の天井に四角い穴を開けていた。1977年12月30日の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。刑務所に訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。トランス・ワールド航空のデンバー発シカゴ行に乗って逃亡。ミシガン州アナーバー行きのアムトラックの旅客列車に乗車し、その後、車を盗んでアトランタに乗り捨てる。そこからフロリダ州タラハッシーまでバスで移動した。

 1978年1月15日深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。2月9日、レークシティーに移動。そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する。彼女がバンディの最後の被害者となった。その後、1978年2月15日午前1時ペンサコーラにて、彼が乗っていたフォルクスワーゲンが盗難車のナンバーであったことから警官に拘束される。やがてバンディの身元は判明し、カイ・オメガ女子寮での殺人事件の裁判のためマイアミに移送される。

 1979年6月25日から7月31日にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにも関わらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している。また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターを貰っている。バンディは有罪となり、自分に課された死刑宣告を覆すため、それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3〜4日前になって、全てを話すと言い出した。バンディは一番初めの殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れられることはなかった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感にあふれた顔を見せた。

 1989年1月24日午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。2000ボルト以上の電圧を2分間に亘り加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。

 1989年1月24日死去(享年42)


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